人脈にしても考え方にしても行動にしても
すべてにおいて以前とは違ってきたときに使う表現だ。
自分のやっていることのレベルが段違いに上がることや
以前やっていたことが古臭く感じられるときがある。
昔の仲間とつるまなくなるときにも
われわれはステージが上がるという表現を使うかもしれない。
この時の「ステージ」とは社会的なヒエラルキーとは無関係なのか?
多少関係があるように思う。
われわれは「庶民」とか「中流」とか「アッパー層」などという表現を使って
社会的な目には見えない階層を言い表そうとする。
目には見えない基準をわれわれは感じるのだろう。
「使っている単語が違う」という表現をするかもしれない。
「見えているものが違う」という表現も耳にしたことがあるだろう。
付き合う人のレベルを変えるというのは
自らのステージを上げるのに非常に有効だ。
考え方のレベルが上がったからステージが上がるのか
ステージが上がったから考え方が変わるのか。
それはどちらもありえることだろう。
何が言いたいのか?
何が言いたいのだろう?
ひとは自分のゴールを見て日々を生きているのだろうか?
何気なく生きているだけではゴールに向かっていることにはならない。
そもそもゴールが何かを知ることは簡単ではないかもしれない。
そしてゴールがなにかということがわからなけばステージが上がるかどうかということはわかないのだろうか?
そんなことはないのかもしれない。
ステージが一段上がることによってゴールが見えるということがあるんじゃないか?
そんなことを考えた一日だった。