メルマガ  登録
メールアドレス(必須)
名前

2006年01月01日

文学のペイパー・・・「引用としての塾」




大学に一応いたんですが

時々ペイパーを書く課題がでた。

ペイパーとはレポートみたいなものだ。

そんなにたいした枚数ではない。

なにかひとつ文学作品を討論しあった後なんかに出た。


中学高校のテストじゃないから

自分が書きたいことを書けばいい。

私は大好きだった。

多くの生徒は「ハードだ」とか「ヘビーだ」とか言ってた。



あの時、多くの生徒は作品に書かれてあることを必死で読み取ろうとしていた。

わかるだろうか?

読書感想文にしても多くの人はそこに書かれていることを読み取ろうとする。

もちろん国語のテストだと「作者の気持ちは・・・」とか

「幸助はそのとき・・・」みたいになってしまう。

それで正解とか不正解とかってなる。



(今、非常に自分のなかでは核心的なことを書いてるつもりなんですが

 かまわず書いてみたい。)


自慢ではないが私はほとんどのペイパーはAだった。

それには理由があって

私は文学作品を読んだかもしれないけれど

作者の言いたいことなど考えたこともなかったし

主人公の気持ちなんて考えたこともなかった。

言い過ぎかもしれないが

それらのことはあまり重要ではなかった。


私にとって文学作品について書くとは

自分が言いたいことを書くということだった。

自分か言いたいことを書くためにたまたまその作品を引用しているだけなのです。

生活のなかで発見とか言いたいことがまずあって

それを伝えるために作品の背景や主人公の行動を引用するわけです。



作者の気持ちはどうかとか

ましてや主人公の気持ちなんて

わかるといえばわかるし

わからないといえばわからない。

それは非常にあやふやな部分だ。


そんなことを考えていると文学作品のなかをグルグルまわっているだけだ。

そんな虚構の中をめぐっても疲れるだけだ。

自分は虚構の外に出てその虚構を語らなければならない。

しかも語ることは虚構の中の出来事をではなく

現実の出来事をだ。



私は国語の勉強について言っているのではない。

私は仕事について話しているのだ。


私は塾をやりたいから塾をしているのではなく

自分のやりたいことをするために塾をしている。

誤解されるかもしれないから言うと

お金儲けの手段として塾を選んでいるのではなく

子どもに勉強を教えるために塾を選んでいる。



私は常に「塾」という「物語」の外に出たいと考えている。

チラシを見て塾を知り入会し勉強をする

成績が徐々にあがり受験を迎える。

志望校にめでたく合格する。

他にもいくつもの「物語」がある。

数え切れない「物語」のバリエーションが存在する。

しかしどんなにバリエーションが増えても

それらは「塾」という枠からはみ出ることはない。


私がやりたいことはその「塾」という「物語」のなかで

他よりも上手くやるということではない。

他よりも強くなるということではない。


単純に子どもに勉強を教えるということのために

「塾」というものをたまたま「引用」しているにすぎない。



もちろんそのような発想ですでに様々な形を試されておられる方も多いと思う。

私などは「塾」としてもかなり後発だし

「引用としての塾」としてもかなり後発だ。

けれどかまわない。

「引用」する部分は同じでも

伝えたいことは同じではないからだ。


posted by りんご at 22:11 | 塾とパズルと日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

やまんばは考える・・・



石のからとで寝るか木のからとで寝るか


今日は寒いからと木のからとで寝ると


天井から牛方がするすると降りてきて


湯を沸かし、キリでちいさな穴をあけて


熱湯を流し込む。


やまんばの叫び声が山を震わせる。





「うしかたとやまんば」という絵本を読んだ。


子どもに読み聞かせした。




大きな牛にたくさんの塩サバを積んで


牛方が峠を越えようとしていた。


あとちょっとというところでやまんばに見つかってしまう。


「うしかた〜。サバをくれ〜」


やまんばはバリバリとサバを平らげていく。


何匹も何匹も。


そしてしまいには牛までもバリバリとかみ砕いて食べてしまう。



そんな話を子どもに読み聞かせていると


ブラジルのサンバの名門「マンゲイラ」の黄金時代を築いた


カルトーラを思い出す。


名曲は多いが、有名なのは「人生は風車」


あのギターとフルートが何ともいえない切なさをかもし出す。


我々の夢や希望を人生という風車がバリバリと壊していく。


そう民話のなかのやまんばのよう。


人生はやまんば。


我々のちいさな夢や希望、安らぎをバリバリと食い尽くしていく。



牛方はやまんばから逃れるため必死で走る。


人が忙しいとかって言ってるのは命に別状はない。


けれど何でもバリバリと食べつくしてしまうやんばに追いかけられたら


どんな人でも必死に逃げるだろう。


牛方は地をはうように走って逃げる。




そして池のそばに立つ木に無我夢中でよじ登る。


水面を見ると自分が映っている。


もうおしまいだと思う。


しかしやまんばは水面の牛方に飛びかかる。




危機一髪で逃れた牛方は


一軒の古い民家を見つけ助けを求める。


しかしそここそがやまんばの家であり


疲れたやまんばの寝床である。


足音が聞こえてきた。


戸をぎしぎしいわせながら開ける。


戸口には頭の先から足の先まで濡れそぼった


やまんばが立っている。


心なしかその目に獰猛さは残っていない。


おそらく我が家へ帰った安心感だろう。


そんな恐ろしい生き物にも心安らぐ場所があるのだ。




またしても牛方は天井の梁に登って難を逃れた。


人間というものは恐れを知らない。


牛方は腹が減ったので


やまんばが焼いているもちを盗み食いしたのだ。


餅だけではなく今度は甘酒までも!



どうしてなくなったのかわからないやまんばはあきらめて寝ることにした。


そうして思案する。


石のからとに寝ようか、


それとも木のからとがよかろうか・・・





昔ばなしは教えてくれる。


ピンチになったら高いところへ登れ、と。


だいたいそれは選べない。


目の前に木があったから登ったし


天井にしか隠れるところがなかったから登った。


人生は地面にはいつくばる人に厳しい。


追って来るものを気にしたり


下ばかり見てしまう。


今年は飛躍の年にしたい。


なんでもいいから木に登ろうと思う。


それはきっと今までと違う眺めだ。


物凄い顔のやまんばも見えるけど


水面に映った自分の姿も見つめることができる。


そして遠くの道すじがきっと見えるはずだ。
posted by りんご at 01:50 | 塾とパズルと日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

花火のような音が聞こえる・・・



あけましておめでとうございます。



さっきずっと遠くで除夜の鐘がなっていた。


細くてちいさな音だった。


けっこうシミジミした。


武田鉄也さんが「金八先生」の役をもらう前の


大晦日の話を思い出したりしていた。



そうしたら花火の音が聞こえた。


お祭り騒ぎみたいだ。




けれどまだ除夜の鐘が聞こえる。



さあ、新しい年だ。



教材を作り始めよう。


自分が見つけた荒地を耕し


種を蒔いて


収穫しよう。



迷路、しりとり、ことわざ、四字熟語

語呂合わせ・・・


他にもいろいろあるけどこれくらいにしておこう。



昼間、2,4,6,8・・・とひとりで言ってたら


すごく賢そうな文章があたまに浮かんだ。


われわれにとってどれほど2,4,6,8・・・が有益なものか


ちょっと話したら


「お前はアホか」と言われた。


なんか素敵な一年になりそうだ。



本年もよろしくお願いいたします。
posted by りんご at 00:15 | 塾とパズルと日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。